自分軸を持つ 私のポリシー12

 物事を判断する自分の軸を持つ
 その軸がぶれない。すると動じなくなる。相手がどう出ようと、何と言おうと、回りがどうだろうと、制度が変わろうと、動じない。
 
 深い深い思考から導き出された、軸を持てば持つほど動じない。

 自分軸は、行動の規準でもある。自分が何をすべきかは、自分に従って行動すれば良い。

 しかし、その自分軸が、自分中心に出来ているとうまくいかない。まず、利他を先としなければならない。利他に徹する自分軸であれば、結果、自分に戻ってくる。

「愚人謂わくば、利佗を先とすれば、自らが利はぶかれぬべしと。爾には非ざるなり。
 利行は、一法なり。普く自佗を利するなり。(修証義)」


 自分軸を持つということは、行動規準、つまりポリシーを持つということである。
ポリシーとは、いうなれば、こだわりだ。どうしても、ここだけは、こうしたい、というこだわりだ。


 知り合いに女性の大学教授がいる。その教授は、白い服しか着ないというこだわりを持っている。どこに行くにも、白い服。
そこには、教授の強いこだわりがあり、白にした哲学がある。ポリシーだ。
 自分軸を持っている。

 年末に封切られた映画「聯合官界官庁山本五十六」を観た。映画を観て、浮かんだことは、自分軸だった。山本五十六もあの時代の厳しい流れの中にあって、自分軸に従った。
そう感じた。自分軸を持つ人とそうでない人との違いを感じた。

 自分軸を持つには、どうすればいいだろう?
まずは、自分のこだわりを列挙してみる。ポリシーを書き出す。徹底的に書き出す。それをながめる。すると、似通ったものがある事に気づく。
似ていいるもの、まとめられるものを集める。そして、簡潔明瞭に一言で言い表すことができる言葉に集約する。

 こうして自分のポリシー○か条ができあがる。これが、自分の行動規準となり、自分軸を持つことが出来る。

 自分軸を持つと従うものが変わる。回りに従うのではなく、自分に従うことになる。
 主人公だ。

 自分をよるべとすることだ。

 自分をよるべとすることになると、よるべとなるにふさわしい自分にならなければならない。

 自立し自律できる自分だ。


 自分軸を持つということは、理想とする自分を生きるための指標であり、自分に課すルールを持つということでもある。
自分との約束を決めるということでもある。

 自分軸に従う、つまり、自分に従う生き方を行ずる。
 毎日、ひたすら行ずる。

 行持というのは、このことを言うのではないか?
 そして、行持というのは、一日だけのことではない。しつづけることだ。
 行持をお寺で行ずる人を行持職、つまり住職というだろう?
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なにげなくやらない 私のポリシー11

 禅宗本山の生活では、日常のあらゆる行いにお経を唱えます。例えば、お風呂に入る前は、「沐浴身体(もくよくしんたい)当願衆生(とうがんしゅじょう) 心身無垢(しんじんむく) 内外光潔(ないげこうけつ)(入浴するときは、多くの人々が、心と体が清らかで光り輝くようにと願い沐浴します)と唱え、浴場のご本尊である跋陀婆羅菩薩(ばつだばらぼさつ) に三拝してから入ります。出るときも三拝します。

 夜寝るときは、「昏夜寝息(こんやしんそく) 当願衆生(とうがんしゅじょう) 休息諸行(ぐそくしょぎょう) 心浄無穢(しんじょうむえ)(夜寝るときは、多くの人々が、あらゆるはからいをやめ、煩悩を解き放ち心を清らかにするように願い就寝します)」と自分の寝る布団に向かって三拝して床につきます。

食事にも細かな作法があり、お経を唱えます。そして食事そのものも成道(じょうどう)のためにいただくのです。口を漱ぐときも、トイレに入るときも、日常のありとあらゆる事に願いが込められています。自分自身のためだけでなく、あらゆる人々のためにと願い、行じるのです。

 道元禅師は、日常生活そのものが修行であり悟りであると示され、すべての行いが禅そのものであるとお諭しになりました。坐禅をしている時だけが、禅ではなく、読経しているときも、作務(さむ)(掃除や農作業)をしているときも、料理を作っているときも、お客様に相対しているときも、お茶を出しているときも禅であると仰っているのです。それを只管打坐(しかんたざ)といいます。総持寺を開かれた瑩山(けいざん) 禅師は、その消息を「飯におうては飯を喫し、茶におうては茶を喫す」とお示しになりました。
 ご飯をいただくときは、ただ、ひたすらにご飯をいただきます。
 お茶をいただくときは、ただ、ひたすらにお茶をいただきます。

  さて、弘道学園は、昨年福島正伸先生の「理想の会社を作る研修会」に参加しました。福島先生は、夢の実現を目指す多くの熱き経営者や若い人を応援している人です。たいへん熱い人です。私は、根っからのポジティブ人間なので、すっかりファンになってしまいました。理想の会社とは、会社(学園)の活動全てが、理念に基づいた行動になることで、学園が一体化し、働くことが喜びとなり、共に働く仲間のための仕事を惜しまないチームとなることです。

 福島先生が研修の中でこうおっしゃいました。

「日常のあらゆることをなにげなくやらないことです。我が社でコピーを取るときは、『世界を変えるためにコピーを取ってください。』といって、コピーを取るのです。」

 なにげなくやらない。

 そうなんです。日常のあらゆることを何気なくやらないこととは、実は、本山の生活と通じることであり、言い換えれば、只管打坐なのだと気づきました。ありとあらゆる決断や行動に理念やポリシィが行き渡っていると軸がぶれなくなります。迷いがなくなります。

 弘道学園の理念をまとめたのが、「みんながはっぴーに!」です。みんながはっぴーになるために、ゴミを拾うのです。みんながはっぴーになるために、コピーを取るのです。「みんながはっぴー」って、難しく言うと「当願衆生」に通じます。そのことが、腹の底にどんと落ちました。

 道元禅師の教え、只管打坐とは、すごく簡単に言うと「すべてのことをなにげなくやらない」という事なのだと解釈することが出来るでしょう。

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違いを認める 個性を認める  私のポリシー10

違いを認める 個性を認める

人は、誰一人として全く同じ人はいない。
みんな違う。

産まれた時間も場所も違う。親も違う。育ち方も違う。食べ物の違う。

何もかもみんな違うのだ。
だから、考え方も違う。導き出す結論も違う。

自分と同じ考え方の人などいないのだ。


なので、違いを認めることが大切だ。
みんな違うのだから、ある意味、当たり前のことなのだ。

ところが、この違いを認めようとしないことが多い。
一人ひとりだといいのだが、グループ、組織になると違いを認めにくくなる。
「あいつ、変なやつだ」
「あの人は、私たちと違うのよ」

グループの意志が働き始める。
常識?
誰かが決めたのではないが、グループ内に存在する暗黙知。
そこから、はずれるとグループから排除されてしまう。

だから、自分の意志とは異なっていても、グループ内に留まることになる。
グループには、ルールができあがる。

たとえそうであっても
グループのルールを守りつつ、しかも自分らしくありたいと望む。
どんな状況になっても、自然にもたげてしまう、自分らしさ。

これを個性というのではないだろうか?

よく個性を伸ばす教育という言葉を聞く。
個性をその人が持っている能力のように捉えている。

私は、個性は伸ばすと言うより、認めるものだと感じている。

能力ではなく、自分で意識するしないに関わらず、表れる自分らしさだと思う。

個性は、否定されるべきものではない。個性は尊重されるべきだ。


ルールを守らず、自分勝手な行動をとることを個性的と捉える向きもあるが、
これも先ほどの考え方に当てはめると、個性ではない。
ただの我が儘だ。ルールを守ることと個性的とは同列ではない。


元々一人ひとり違うのだから、その違いを認め合おう。
個性を認め合おう。

認めた上で、その子が得意とするところにフォーカスを当て
それを伸ばしてあげるのが、教育なのだと私は考えている。

違いを認め、個性を認める。

私が大切にしているポリシーだ。
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